稲田防衛相「教育勅語の核の部分は取り戻すべき」
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170308/k10010903641000.html

核の部分の前に、教育勅語ってしらなかったので調べてみたのですの。

でも、もともとの文章が古文みたいでぜんぜんわからなかったのですの。現代語訳を探したら、いろんな訳があってまずどれが正解なのか。現代人には難しかったですの。

だから、いくつか見比べてなんとなくの把握なのですけど、

これは結局、王様が民に対して「こういう民でありなさい、そして王家を守りなさい」ってつぶやいてるものだと思うのですの。強いて言えば、それが核だと思いますの。

教育勅語いいところもある説で出てくる「親に孝行、兄弟なかよく」みたいなものは、あくまで、この「こういう民でありなさい」の内容の話ですの。

大前提が王と民の関係で、そういう文脈になっていること自体が現代ではアウトなので、部分的にいいこと書いてあるから教育勅語は全て悪いわけではない、っていう理屈は無理がありますの。


たとえば、教育勅語の中には「兄弟」や「遵守」という単語が入っているけれど、よそでそれらの単語を使ったところで、だれも教育勅語の一部だとは思わないし、実際に全く関係ないものですの。

もう少し広げて、「親に孝行」「兄弟なかよく」これも教育勅語とは無関係ですの。

稲田防衛大臣が言った「親孝行や、友だちを大切にすること」これも無関係ですの。

「王様いわく、親孝行で友だちを大切にする民になりなさい」と言う文になってはじめて、教育勅語で言ってたことだよね?となりますの。



もし、たんに「親孝行や、友だちを大切にすること」が大切なのだと思うのなら、そう言えば良いだけですの。教育勅語を出してくる必要はないですの。

必要がないのに、教育勅語を引き合いに出してくるから、王と民の世界に戻したいのか?って思われるのですの。あえて教育勅語を出してきたことで増える要素は、それしか無いからですの。


どうしても「あの文章のような精神」と、まとめて言いたいのなら、最低限「王様が民に言う」というスタイルではない、あたらしい文章にまとめ直したものを持ってくるべきですの。

ただ、どちらにしても、思想を定めた文章が1つあって、みんなでそれに従う…という発想自体が、民主主義の世の中ではナンセンスの極みではありますの。

はみ出してはいけない枠だけ法律で定めるけれども、枠の中をどう生きるかは各個人に委ねる、というのが民主主義であり、その自由さこそが民主主義の力だからですの。