個人の行動を社会のせいにしてはならない。
社会がどうであれ、個人個人が正しいことをすればそれでいいのだ。

と言う主張は、

奴隷制は必要悪だと主張することと、おなじですの。


社会の中で個人が出来ることは限られていますの。
ポケモンを求めて移動する群衆の中に一度入ってしまえば、交通違反だからと道路から出ようとしても、簡単には抜けられないし、一人で人の波に逆らえば怪我をしますの。

社会の流れに反して立ち向かう個人には、大きな負荷がかかりますの。その負荷は本来、みんなが少しづつ負担しなければならない負荷だったものですの。

立ち向かう個人が増えれば、犠牲を出しながらも流れを変えることは出来るかもしれない。けれどそれは、社会のためには尊い犠牲者が必要なのだという発想にほかならないですの。じぶんが進んでその犠牲となると言うのなら止めはしないですの。ただ、他人に対してその役をやれと言うのは、偽善を超えて悪だと思うのですの。

個人は、社会に抗えない。

だから個人がひどい行動をとったとしても、社会がそういう流れなのであれば、責めることは出来ないですの。
たとえ、罰することは出来たとしても。

例えば、いじめを傍観していた人にも罪がある、という主張は無理がありますの。止めに入った結果、いじめの被害者になる可能性があるとすれば、それはもはや、個人に負わせていい負担ではありませんの。警備員を入れるなり、監視カメラをつけるなり、もっと上位の仕組みによって解決すべき問題ですの。

善意の個人は尊いけれど、それを常に犠牲にして社会を成り立たせていたら、当然のこととして、善意の人はいなくなってしまいますの。
そんな世界は生きづらいと思いますの。

そうならないためには、社会がどうであれ、ではなく、まず社会に問題が無いかを徹底的に考えることが先ですの。

個人は、社会に抗えない。しかし、ゆっくりと変えていくことは出来ますの。