おひさしぶりですの! わらわですのー!(元気)

ここ何年か、忙しすぎてとんでもないことになっているのですの。でも、やらなきゃいけないことが多すぎるだけで、それについていけるほど身体が動けているわけではないので、忙しいけどわらわは無事ですの。

ついていけてない結果、状況は無事じゃなくなるかもしれなくて、そうするとわらわも無事ではなくなるけど、とりあえず無事ですの。

さて、そんなに忙しいと考えることはやっぱり「AIにやらせちゃえ」になるわけなのですけれど、最近はChatGPTがすごすぎて、本当にやらせちゃえることが激増しているので本当にびっくりなのですの。

でも便利な反面、仕事を奪われる!って不安になる人もたくさんいて、世の中は「AI推進・活用派」と「AI撲滅派」で真っ二つになっているようですの。

で、実際に仕事を奪われるのかっていうと、もちろん奪われるわけですの。当然に。

それでじゃあ、どんな仕事が奪われちゃうの?っていうと、もちろん、その範囲はAIが進化するにつれてどんどん広がっていくわけなのですけれど、いま何が恐ろしくて最高に楽しいかと言うと、それは「今後の進化とか待たなくても、今のレベルで既にかなりの仕事ができちゃう」ということなのですの。

ネット上には、一般の人から、学者さんみたいな人まで含めて「ChatGPT試してみたけど間違いだらけで大したことなかった」みたいなことを言っている人がたくさんいるのですけど、こういうの信じたらダメで、まず嘘だと思ったほうがいいのですの。

なぜかというと、特に断りなくこういうことを言う人は大抵、無料版で試して終わりの人たちだからですの。ChatGPTには、安くて回答が速いけど性能の低いGPT-3.5版と、回答遅くて高いけど性能が高いGPT-4版があるのですけど、無料版で使えるのはGPT-3.5版だけなのですの。

ChatGPTがすごいやばい、やばくてすごいとか語彙力を失くしている人たちが言っているのはGPT-4のほうで、それに比べるとGPT-3.5はクソ雑魚といっても過言では無いわけですの。

正確にいうと、どちらもリアルタイムで進化を続けていて、GPT-4も出始めの頃は当時のGPT-3.5と体感では差がわからないくらいの違いしか無かったのですけど、その後の進化がとんでもなくて「今のGPT-4」は、ちょっと尋常じゃないレベルになっていますの。

なので、この違いを意識しないで「ChatGPT試してみたけど~」って言う人は、まず間違いなくGPT-4で試してないので当てにならないということなのですの。

思い切り話が逸れたのですけど、逸れたついでに結論まで大ジャンプすると、もし将来的に人類がAIに全ての仕事を奪われたら人間は何をすればいいのか?それは、みんなで消費者になればいいということなのですの。

ときに、市場では、神の見えざる手によって商品の価格が決まっていきますの。欲しい人が多くて、それに対して供給が少なければ価格は上がり、その逆なら下がる。いつものやつですの。

当たり前に馴染みすぎていて忘れてしまうけれど、これって実はすごいことですの。

AIは、与えられた価値基準の中でベストを目指すことは出来るけれど、価値基準を決めること自体は人間にしか出来ないことで、それを決めてもらわなければ意味のあることは何も出来ないのがAIなのですの。

何がどのくらい大事とか欲しいとか、それを表明すること自体が最大級に重要な仕事なので、もしAIに全ての仕事を取られちゃったら、人間はみんな消費者になればいいし、それが理想的な最終形態なのですの。

ちなみに、この「人間にとっての価値基準」までAIが決めるようになった世の中を描いたゲームが、あの有名なParanoiaで、結果としてそこでは、人間たちは消費者ではなく家畜的な生き方を強いられることになりますの。

自ら選んで消費するのは消費者だけれど、その権利がなく消費をさせられるだけだと家畜というわけですの。

なんとなく下に見ている人が多い気がするけれど、実は重要な仕事をしているのが消費者という存在で、その仕事を軽んじていると家畜になってしまう、かもしれないので、お気をつけあそばせというお話ですの!(急なホラー展開)

最近、PCのモニタを4Kのモニタに買い替えたのですけど、前と比べればモニタ自体のサイズもだいぶ大きくなってるとはいえ、4Kの表示領域が広すぎて等倍だと文字が小さいのがちょっとつらいですの。

4Kについて説明すると、まず、ふつう特に意識しないでPCやノートPCを使っている場合、そのモニタは大抵フルHDですの。フルHDは、画面に表示できるドットの数が1920×1080のモニタのことを言いますの。

4Kは、これが3840×2160。つまり、縦横がそれぞれフルHDの2倍。フルHDのモニタを4つ並べたサイズの画面を一つのモニタで表示することになりますの。これだとモニタ自体のサイズも縦横2倍にしないと前と同じ見た目にならないのですけど、さすがにそんな巨大モニタは使いづらいし値段も高くなってしまうので、1.5倍くらいのサイズにするわけなのですけど、そうすると全体的に75%くらいに縮小された見た目になるのですの。

何が言いたいかと言うと、このブログの文字が小さすぎてぜんぜん読めないということですの。なにを考えてこんなに小さいのにしたのか強く抗議したいのですの。

アフリカ安定化へ、5億ドル支援 日ガーナ「透明な融資」で一致
https://news.yahoo.co.jp/articles/d1e14864ad03c98e12553ee549cec3fe430d7474

「外にばらまくお金があるなら、内で困ってる人に使え」というコメントに対して、「困窮者に使っても砂漠に水をまくみたいになってしまって意味無い」という人がいたのですけど、人が砂漠になってる前提で水をやらない発想が鬼畜すぎてはちゃめちゃおもしろかったのですの。

特に言うこともないのでここで終わらせようかと思ったのですけど、ただ、意外と似たようなことを考えている人っているのかもと思ったので少し続けてみますの。

まず、この意見は概ね2つの誤解が根にあると思うのですの。

  1. この世には救う価値の無い人間がいる(誤った自己責任論)
  2. いちいち助けていたらキリがないしそんな余裕はない(際限のない支援への恐怖)

正直、最初は1が基本にあるから出てきた意見だと思っていて、あえて言うことも無いかなと思ったのはそこなのですけど、ふと2の可能性を思いついて、これは今まで深く考えたことの無いポイントだなと思ったのですの。

特に、この「キリがない」という理由付け。実際、困窮者切り捨て系のことを言う人からよく聞けるのですけど、ずっと方便としてそう言っているんだと思っていたのですの。でも、もしかして本心でそういう誤解をして、恐怖から言っているのかもと思ったのですの。

そういう人たちが本心にしろ故意にしろ見落としているのが、支援を行って問題を解決していく度に確実に状態は良くなっていくということですの。

けっこうなんでもそうなのですけど、例えば、勉強やスポーツだってキリがないものですの。目の前の課題を一つクリアしたら、新しい課題が見えてくる。その繰り返し。そうやってレベルアップしていくものですの。

ただ、これらを指して悪い意味でキリがないと言ったり、だからやらない、意味が無いということは普通無いわけですの。なぜなら、目指すレベルに達するまで励むということにキリの有無は関係ないし、レベルアップの機会にキリがないことはむしろ好ましいことだからですの。

支援も同じですの。少ない支援なら小さな効果、大きな支援なら大きな効果。お金をかけた分の効果はちゃんと出る。明日のごはんにも困っていた人がまともに暮らせるようになれば、治安も良くなるし、労働人口も増えていきますの。

あるいは、さらに支援の段階が進めば、逆に過剰な労働人口が適切に調整されることでブラック企業が淘汰され、全体の雇用条件、ひいては労働環境も改善されていきますの。支援におけるレベルアップとはそういうことですの。

予算にしても、出せる範囲で割り当ててその中で計画的に最大限の支援をすれば良いだけであって、あえて要求されるだけ無尽蔵にお金が使われてしまうような心配をする必要はどこにも無いのですの。そもそも、社会保障費規模の話でそんな雑な予算の使い方は出来ないですの。

このあたりは、世の中に支援を必要とする対象はたくさんあって時代に応じて変化もする、ということのみが意識されてしまって、別に全ての支援を一度にやる必要は無いということが理解されていないのかなとも思いますの。

時々触れられる経済効果についても、困窮者を支援しても日用品を買って終わりだから効果が薄いなんていうのは大きな間違いですの。お金は複雑なルートを辿りながらも、全体としては貧しい者から富める者の方へ流れていきますの。つまり、お金の移動の始点と言える困窮者にお金を戻してこそ、お金の移動量(経済効果)の期待値は高くなりますの。

だから、安心して国内の支援にお金を使っていいよというお話ですの。

機能停止していたAIイラストメーカー「mimic」が今後の展開を表明、悪用対策を盛り込み絵師が使いやすくなる方針でかなり好評な模様 

本題はどうでもいいのですの。
下の方の論争で、元プログラマーという方が概ね正論を説き続けているのに理解されず、果ては微妙にズレた批判で袋叩きにされていたのがおもしろいなと思ったのですの。

この方の意見は一貫して「AIの能力に制限を設けるのは悪手、または無駄」というものですの。理由としては、個別のサービスや国単位で制限をかけたところで、同等の技術を持って制限をかけないところが他に出てくることまで防ぐのは現実的ではなく、出てくれば結局みんなそれを使い始めるから意味がないということですの。

対して、この方への批判意見は、絵師が困ったり職を失ったりするかもしれないのに制限をかけることに反対するなんて、絵師や絵を軽視している。失礼だし、人の心が無いのか、というものですの。

正直、意見と呼べるかもあやしい感情的な反発ですの。ただ、悲しいことに、世の中にこういった考え方や、それに基づいた批判は溢れていますの。

そして、これを一撃で斬るのが、元プログラマーさんの「お気持ちは分かります。でも技術の進歩は止まらない。」という正確無比の一言ですの。すき。

例えば、移動に馬や馬車を使う文化や、それに関わる職は、自動車の発明・発達で甚大なダメージを負いましたの。しかし、だから自動車は発明すべきではなかった、あるいは、規制をかけて馬や馬車が対抗出来る程度まで不便にすべきだった、なんて言う人はもはや現代にはいないし、そんなことを実行することも不可能だったわけですの。

アメリカが自動車に規制をかければ、フランスが覇権を取る。アメリカとフランスが規制をかければ、イギリスが覇権を取る。先進国が規制をかければ後進国が覇権を取るし、全ての国が規制をかければ闇でマフィアかなにかが覇権を取る。マフィアかなにかが自重すれば、もっと躊躇の無いなにかが覇権を取る。もっとも、マフィアが自重してくれるのならの話ですの。

実際に、蒸気自動車の時代、馬車業者の保護のために自動車に規制をかけたイギリスは、自動車産業でしばらく他国に遅れを取る結果となりましたの。それで馬車が守れたかと言えば結局無理だったわけですの(*1)

技術の進歩を止めることが出来る、という誤った前提に立つ限り、議論も、そこから導き出される正解も誤ったものにしかならず、技術の進歩を止めることは不可能、という前提の上に立って初めて、正しい議論は始まり、まったく別の風景が見えてくるのですの。

すなわち、技術が進歩した先の世界で、どう生きるかということですの。
例えば、こうですの。

1.AIとの競合を避けて転職する
2.センスを活かして、AIに良い絵を描かせる職人になる
3.趣味や情操教育のための、絵の先生になる
4.安価に高速でAIが絵を生成する世界で、AIに描けない絵を追求する
5.絵の知識を活かして、AIの能力を高めるためのアドバイザーになる

需要の大部分がAIに取られるとすれば、ほとんどの人は1を選ばざるを得ないはずですの。その場合、いかに早く見切りをつけるかが分かれ目になると思いますの。あるいは、今の絵師需要とは比較にならないほどパイは少ないながら、2や3で間接的に生き残ることを目指しても良いし、自信があれば4や5でも。

ここで重要なのは、この中でどの選択肢を取るのが良いのかということではなくて、そもそも取るべき選択肢の種類がガラッと変わるということであり、それに一刻も早く気がつく必要があるということですの。

納得できない人には最後にもう一度、この言葉を贈りますの。
「お気持ちは分かります。でも技術の進歩は止まらない。」


*1) もちろん、現代まで規制し続けていたというわけでは無いけれど、続けていたら衰退して国ごと滅んでいてもおかしくないので、現実的に、馬車のためにそこまで出来ないですの

円安すごすぎですの。
1ドル144円で、まだ下がりそうらしくて。もはや現実感が無いですの。

去年の今日は110円だったので、 そのときと比べると、米ドルで買うあらゆるものが約31%値上がりしてる計算ですの。

円安は他国から見た円の価値が減っている状態ですの。自分の価値を貶めることはすぐ出来ても、認めてもらうのは難しいのと同じで、円高になる分にはどうとでもなるけれど、円安が行き過ぎた場合は円高ほど簡単には対処できないので、これからどうするのかある意味見ものですの。

日本は輸出企業が多いから円高は悪、無理矢理にでも円安にすべき、円安にすれば景気が良くなって全体が良くなるんだ。と言っていた、もしくはまだ言っている人たちが過ちを認めて反省することは未来永劫無いと思うけれど、少なくともこのまま円安に歯止めがかからなければ、それが過ちであったことだけは現実として現れてくると思いますの。

ただ、どうしようも無い政権が致命的な失敗をするのは、見限られて退場してくれる可能性が高まる意味では歓迎なのですけれど、その失敗の泥をかぶるのは常に国民だということを考えると、シンプルに嫌すぎですの。

円安が進むと致命的なことになる理由は、少なくとも日本ではトリクルダウンは嘘で、むしろ、その逆が正解だからですの。

お金持ちがなぜお金持ちかといえば、重力のようにお金がそこに集まっていくからですの。労働者のように、都度、労働力の対価としてお金を得るのではなく、構造的に常にお金を吸い上げられる体制を作ったからお金持ちなのですの。

お金持ちは、大きなお金を使うことはあっても、それはより大きなリターンを見込んだ投資であって、けして資産は減らさない。純粋な楽しみのための消費もするけれど、豪遊しているように見えて、資産割合で見れば庶民がファミレスに行く程度のお金しか使わないし、使わずに済む。

一方で庶民は、労働力と時間を売って得たお金の大半を、お金持ちが売ってる商品に費やして毎日を過ごす。

こんな構図で、かつ、政府が富の再分配に消極的な社会で、円安で輸出企業が儲かったところで、庶民が円安のデメリットをカバー出来るほどのメリットを得ることは無く、結果、起こるのはさらなる格差拡大だけですの。

さらに言えば、そこで肥え太るのが輸出企業というのも最悪の組み合わせですの。

自国内での販売が中心の企業なら、なにかで荒稼ぎして大儲け出来る状態になったとしても、さすがに自国民が貧しくなりすぎて購買力が落ちれば結局は自社の利益も落ちるので、ある程度まじめに国内、国民の生活を考える余地があって、共存共栄という方向に行きやすいですの。

でもそれが輸出企業だと、極論、自社に関わらない自国民がどんな悲惨な生活をしていようと、商品が作れて輸出先で商品が売れさえすれば問題ないので、国内を自国民が死に絶えるレベルの環境にする政策だって平気で支持出来るし、なんなら要求出来るのですの。

輸出ほどでは無いけれど、たぶん外国人向けの観光産業なんかも基本的に同じですの。自社の関係者に少し加えて、観光地の運営やそこに至るまでのアクセスさえ無事なら、という条件にはなるけれど、やっぱりあとはどうなっていても儲けには影響が出ない構造ですの。

外国人にものを売るなというわけでは全然ないし、きちんと税金を取って再分配するならなんら問題は無いのですけれど、再分配しないせいで国民が貧しくなって、国民が貧しくなってものが売れないから外国人に売ろうとなって、外国人に売るための便宜ばかり図るから国民がさらに貧しくなって、というのは悪循環としか言いようがないですの。

ついでに言えばこの悪循環には続きがあって、そうやって貧しい国民ばかりの国になると、生きるだけで精一杯過ぎて、勉強してスキルを付けたり、ビジョンを持って起業したりということが出来る人が少なくなって、国自体の活気や地力がどんどん落ちていきますの。

そして、国として力が弱くなっていけば、円安はさらに進むのですの。

権利を主張するならまず義務を果たせ、という人がよくいるけれど、その素朴な考え方はいつでも正しいわけではないですの。こと、個と国の関係においては。

わらわがいて、あなたがいる。わらわがあなたから100円もらおうとするとき、わらわはあなたに100円分の価値を渡さなければいけない。これが、個と個の間の取引の考え方。

国というのが、大きな権力を持った個、つまり国王と同義だった中世の時代は、この考え方でも間違ってはいなかったと言えますの。でも今は中世ではないのですの。

ちいさな畑を持つ10人が、それぞれいったん自分の畑を持つ権利を放棄して、一つの大きな畑を共同管理することで効率化を図ろうというのが、近代的な国と個の関係。

当然のこととして、もし共同管理することにメリットがないのであれば、ちいさな畑のままやっていればいいわけですの。繰り返しになるけれど、メリットがあるからやっているのですの。

メリットがあるということは、言い換えれば「個が国に渡すものよりも、国が個に返すもののほうが大きくなる」ということですの。国に対して、個は一方的にメリットを受け取っていればよく、逆にそうでなくなった瞬間、存在価値が無くなってしまうのが国ですの。

そして、メリットと引き換えに個が国に渡しているものは何かといえば、最たるものは「何者にも従わない権利」ですの。義務の形に言い換えれば「国に従う義務」であり、法治国家であれば、それはつまり「法を守る義務」ということですの。(ちなみに納税も、法を守る義務の中のひとつですの)

だから、警察や裁判所から逃げ回っているような状態でもなければ、国に対しての義務は十分に果たされていることになりますの。あとは、国がちゃんとやっているかどうかチェックして、問題があれば選挙を通じて正すのが監督者としての義務といえば、義務ですの。

それだけ? と思う人は、突然しらない人が家に入ってきて、あなたは今から私が決めたオレオレ法律に従ってもらいます。従わなければ独自のオレオレ罰則を与えますと言われる状況を想像してみて欲しいですの。

生まれたときからその中にいると意識することが無いけれど「ある法律に従うことを受け入れる」ということは、内容次第ではあるけれど、本質的に、生殺与奪の権利を他人に渡すということ。それは、軽いものでは無いはずですの。

Gotoキャンペーンという業界限定の支援策が不平等だと批判されるとき、反論としてよく見かけるものに、平等な税の使い方なんて存在しない、平等うんぬん言うならたくさん税を納めてる人に優遇がないのはまったくもって不平等じゃないかという論がありますの。

これは「平等」の前提が狂っていますの。

まず平等とは適切に富の再分配がなされている状態のことであって、せっかく再分配のために累進課税している税が、配り方がまずいことで正しく再分配がなされず、富裕層にまた戻っていってしまうことが不平等であり、最大の問題なのですの。

つまり、あえて言葉を借りて返すとすれば、たくさん税を納めている人に過分な優遇が無いことこそが平等な状態なのですの。

極端な話、どんな政策であれ、結果として適切な再分配が達成されたのであれば、その時点では平等な税の使い方であったと評価できますの。なぜなら、政策の結果、あるいは政策によって予想される結果として適切な再分配が達成されるかされないか、税の使い道で平等さについて考えるとき、評価軸はそこしかありえないからですの。

また、高額納税者(?)の謎の被害者意識も疑問ですの。
当たり前の話なのですけれど、現在の税制でたくさん税を納めてる人というのは、より少ない税を納めている人と比べたとき、基本的には納税額を引いても収入は多い。つまり、優遇されているのですの。優遇がないというのは、納税後の収入に差がない状態のことですの。

たとえば、年に1億円稼いだ人と200万円稼いだ人の納税後の収入が同額(180万円とか)になる税制であれば、そこではじめて優遇がないと言えるのですけど、現在そうではないので優遇されている状態と言えますの。

そうではなく、そもそも累進課税がおかしいんだという人は、富の再分配が無い社会がどうなるかということを考えてみてほしいのですの。

本質的に一番問題なのは、富というのが個人の自由(とそれに伴う活動)を保障するものでもあるために、もし富の再分配が無ければ、一握りの富裕層を除いた大多数の人々の自由が脅かされることですの。それは実質的に、自由経済のメリットの大半を殺しますの。(*1)

とくに、高度で知的な領域について人的リソースをフルに使えなくなることや、科学や産業の世代交代の速度が鈍るデメリットが大きいですの。

毎日を生きるのに精一杯という人々の中で知的活動は盛り上がりにくく、個々人に対して、生きるために必須ではない活動が出来る余裕をどれだけ与えられるかが、その社会の長期的な強さに直結しますの。

世代交代が鈍るのはどういうことかというと、昔の成功者がいつまでも富を持ち続けて、次世代の誰に(または何に)投資するかについてもその意向が強く反映されることで、旧世代の人間の常識を越えた革新的な試みにリソースが割かれづらくなるということですの。
こうなると例えば、移動手段なら、いつまでも馬の品種や馬車の改良といったマイナーアップデートから抜け出せず、なかなか自動車が現れないということになりますの。

また、消費活動という意味でも、一部の富裕層だけが商品を買って消費する状態は好ましくないですの。言ってみれば、市場経済とは商品たちの選挙であり、お金は投票券であり、購入とは投票であるからですの。

支持を集めた商品の値は上がり、生産は拡大していきますの。支持を得られなかった商品は逆の結果を辿り、淘汰されていきますの。もし技術面などで優れた商品であっても、この選挙に通らないことには生き残れないので、これはとても重要なチェック機能であると言えますの。

このとき、富の再分配が不十分だと、実質的に一部の富裕層の間だけで商品の良し悪しを決めるような状態になって、より大勢の人間が参加した場合と比べてチェックの質が落ちることになりますの。つまり、優れた商品が見落とされたり、凡庸な商品が惰性で支持を集め続けたりということが起こりやすくなりますの。

ほかにも挙げれば色々あると思うのですけれど、例えば、もちろん治安は悪くなって、それを抑え込むためのコストも激増したりで、原則、最大多数の最幸福を地で行く世の中になるので、短期的にも長期的にもメリットがほぼ無いですの。

まあ、累進課税や富の再分配を否定すればタックスヘイブンにはなるので、海外から富裕層を集めてそこに依存する方向はあるかもですけれど、それはそれで中世の封建社会のリバイバルみたいな感じになりそうですの。しかも王様達のほとんどは言葉も文化も違うという。。


*1) 格差を放置した自由経済の行く末には、自由の無いなにかが待っている