UnityのSceneManagerを使おうとしたら、LoadSceneとかとか、必要なメソッドがどうしても使えなかったのですの。

もちろんusing UnityEngine.SceneManagement;は書いてるのですの、それじゃないんですの。なんなんですのいらいら。

2時間くらい悩んでコーヒー飲んで戻ってきて、ふと英語で検索してみようって思ったのですの。

http://answers.unity3d.com/questions/1224144/scenemanager-does-not-contain-a-definition-for-loa-1.html
そしたらこれを見つけて、思い出したのですの。

SceneManagerって名前の自作クラスが、アセット内にあったことに。。
どうりでいくら調べてもわからないわけですの。


たしかに、Unityのデフォルトのクラス群?の中には、SceneManagerを使っているものもあって。その記述をコピペして来ても動かないから変だなとは思ったのですの。

同名のクラスがアセット内にある場合、いくらusing UnityEngine.SceneManagement;していても、アセット内のクラスの方が読まれてしまうので、もし書くならUnityEngine.SceneManagement.SceneManagerとでもしないといけなかったのですの。

これって、トラブルになったもので検索しても出てこないから、忘れた頃に定期的にはまりそうでおそろしいですの。 。ぶるぶる。

あまりのことに、Unityの再インストールまでしてしまったですの。

「結婚宣言」で大炎上!アイドルに禁欲を押し付ける日本の男の異常性
http://diamond.jp/articles/-/132690

この記事を読んでいたら、ヤマトの過重労働の記事を思い出しましたの。


「アマゾン多過ぎ」ヤマトドライバーから悲鳴続出、「利便性」が生んだ過酷な実態
https://www.bengo4.com/internet/n_5530/


ヤマトの記事は、消費者に責任があるような話になっていますの。
でもヤマトの現場が忙しいのは、消費者のせいでもAmazonのせいでもなくて、Amazonからの仕事を受けると決めたヤマトの経営者の責任ですの。

一方、アイドルの記事ではファンが悪いような話になっていますの。
これも同じで、結婚宣言したアイドルが炎上するのは、ファンのせいでも事務所のせいでもなくて、アイドル本人の責任ですの。

どちらも、商品(サービス)を買った消費者のほうに責任を求めているけど、それは間違った考え方ですの。合法的に売ってるものを買っている限り、消費者に責任は問えないですの。

この件が非難されるのは、恋愛禁止のアイドルって書いてある商品を注文したら、代金を振り込んだあとに、表示と違う商品が届いて、しかも返品・返金不可というところですの。

初めから、プライベートで彼氏がいるアイドルって書いてあれば、なにも問題はなかったのですの。

記事の主張が通るなら、ヨーロッパで、発酵禁止の大豆って書いてある商品を注文したら納豆が届いて、返品・返金を断られて怒ってるお客さんに、納豆という健康食品を理解しないヨーロッパ人の異常性とか言って非難するのも通ることになりますの。

消費者の嗜好は人の数だけ色々にあるのだから、そこに善悪は無いですの。
売り手は売りたくない商品があれば、売らないことも出来ますの。
ただ、表示と違う商品を売るのは悪ですの。

ちなみに、納豆も大豆も大好きですの。

稲田防衛相「教育勅語の核の部分は取り戻すべき」
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170308/k10010903641000.html

核の部分の前に、教育勅語ってしらなかったので調べてみたのですの。

でも、もともとの文章が古文みたいでぜんぜんわからなかったのですの。現代語訳を探したら、いろんな訳があってまずどれが正解なのか。現代人には難しかったですの。

だから、いくつか見比べてなんとなくの把握なのですけど、

これは結局、王様が民に対して「こういう民でありなさい、そして王家を守りなさい」ってつぶやいてるものだと思うのですの。強いて言えば、それが核だと思いますの。

教育勅語いいところもある説で出てくる「親に孝行、兄弟なかよく」みたいなものは、あくまで、この「こういう民でありなさい」の内容の話ですの。

大前提が王と民の関係で、そういう文脈になっていること自体が現代ではアウトなので、部分的にいいこと書いてあるから教育勅語は全て悪いわけではない、っていう理屈は無理がありますの。


たとえば、教育勅語の中には「兄弟」や「遵守」という単語が入っているけれど、よそでそれらの単語を使ったところで、だれも教育勅語の一部だとは思わないし、実際に全く関係ないものですの。

もう少し広げて、「親に孝行」「兄弟なかよく」これも教育勅語とは無関係ですの。

稲田防衛大臣が言った「親孝行や、友だちを大切にすること」これも無関係ですの。

「王様いわく、親孝行で友だちを大切にする民になりなさい」と言う文になってはじめて、教育勅語で言ってたことだよね?となりますの。



もし、たんに「親孝行や、友だちを大切にすること」が大切なのだと思うのなら、そう言えば良いだけですの。教育勅語を出してくる必要はないですの。

必要がないのに、教育勅語を引き合いに出してくるから、王と民の世界に戻したいのか?って思われるのですの。あえて教育勅語を出してきたことで増える要素は、それしか無いからですの。


どうしても「あの文章のような精神」と、まとめて言いたいのなら、最低限「王様が民に言う」というスタイルではない、あたらしい文章にまとめ直したものを持ってくるべきですの。

ただ、どちらにしても、思想を定めた文章が1つあって、みんなでそれに従う…という発想自体が、民主主義の世の中ではナンセンスの極みではありますの。

はみ出してはいけない枠だけ法律で定めるけれども、枠の中をどう生きるかは各個人に委ねる、というのが民主主義であり、その自由さこそが民主主義の力だからですの。